ushikunaomi’s blog

絵を描いています。絵画作品のサイトはこちら→http://ushikunaomi.com/

アートを身近に・小品販売

f:id:ushikunaomi:20181227182222j:plain久しぶりの更新になってしまいました。

プライベートで大きな変化があり、

バタバタしております。


アートを身近に、をテーマに

ある計画を進めています。

3000〜10000円程度で小さな作品を販売しようとしております。

そのために、ディスプレイボックスを大量に購入しました。

ドライフラワーと組み合わせて

テンペラの作品を制作中です。


詳細は1月下旬にお知らせできると思います。


もう今年も終わりです。

今年は3つのグループ展に参加しました。

早く個展を実現させたいと、動いています。

今年あったご縁と応援に感謝しつつ、

来年も絵に精進します。


皆さま良いお年をお迎えください。




金箔の色

私はテンペラ画を出発として、作品制作をしている。

もっとも今は、膠溶きの絵の具や日本画の顔料も使っているので自分の作品を「テンペラ画」と呼ばないようにしている。

 

テンペラ画は中世キリスト教絵画によく使われていて、黄金背景と呼ばれる、金箔地の上に聖書に出てくる人物などを描くやり方があるので、金箔地にはなじみがある。

 

日本絵画でも屏風などに、金箔地に描いたものがよく見られる。

 

最近は金箔地の色味をどうとらえればいいのか?ということを考えている。

金箔は金属だから、光を当てれば明るく輝く。光があたらず、陰になったり黒っぽいものが映り込むと黒っぽい色になってみえる。色の幅が広く、強い。

 

たとえば磨き上げた金箔地にトレーシングペーパーなどをあてて、光の反射を抑えてみる。すると、金箔は明るめの黄土色かベージュのように見える。

反射や黒っぽいものの映り込みがなければ、わりと明度の高い色合いである。

 

磨き上げた金箔地に、顔料で金箔と同じくらいの明度の色を乗せていくと、顔料は金箔よりはざらざらしていて粒子が粗いから、暗く感じるのではないか。

 

そのことを日本絵画の屏風絵で感じたことがある。

学生時代にそのことをレポートに書いたのを思い出した。

学生時代のレポートに手を加えつつ、ちょっと書いてみる。

 

その屏風を見たのは、2006年に東京国立博物館で行われた「若冲と江戸絵画展」の最終室だった。

 

この最終室での展示はガラスケースを使わず、作品が直接見られるようになっており、舞台に使われるような照明装置を使い自然光のように朝の光、夕方の光、また夜にろうそくを灯してみたような光を再現しており、刻々と変化する特殊なものを使っていた。

その環境で見る屏風は今までガラスケースの中で見たものとはまったく違うものであった。

私は今まで博物館で見た屏風からは、金箔の地の部分に絵画の中の空間を感じず、むしろ威圧感のようなものを感じ、屏風絵は平面的なものだと考えていた。

 

しかし、この環境で見ると金箔の光沢感から、粒子の粗い顔料で描かれた草木などのざらざら感とそれが金箔より暗いことが、かえって描かれているものをうき立たせ、立ち上がってくるようで、空間を感じ、絵画の中に引き込まれていくようだった。

刻々と移り変わる光によって屏風は違った表情を見せ、人物はまるで動いているように感じられたほどだった。

 

この展示方法はコレクターであるプライス氏の「江戸時代にガラスケースはなかった。日本絵画の鑑賞に光は重要である」という意向によって作られたもので、確かに個人コレクションによる展示だったからこそ成立したものだ。博物館の企画による展示では難しいだろうと思う。

 

はじめから現代の作家が空間構築できる現代アートとは違い、歴史上の作品を博物館・美術館で見るとき、ほとんどの場合、当時の「空間再現」ができない。西洋の教会美術を実際に見たことはほとんどないが、教会で見る黄金背景のテンペラ画はまた違う印象・効果があるだろう。

 

金箔は光(照明)の具合によって様々な表情を見せる。私が空間構築をし、金箔や金の魅力を最大限に活かした展示をしたいと思ったとき、照明も自分で用意しなければいけないのかな、と思っている。実現するかは別として。

 

 

 

新たな制作場所

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4月より、studio913という共同アトリエでお世話になっています。

私以外に3名の作家が制作しています。

広い場所を使えることに感謝しています。

 

そして今まで同じアトリエだった升方允子さん!

Masako Masukata | 升方 允子 - ますかた まさこ

 

今までありがとう!允子さんの作品からも、プライベートからも、大いに刺激を受けました。

今までのご縁、これからのご縁に感謝しつつ、制作に励みたいと思います。

 

 

 

グループ展のお知らせ

この度、小笠原まりえさん、高橋亜紗子さんとの3人展を開催いたしますのでお知らせいたします。

私は、植物のエネルギーをテーマに新作13点を展示いたします。

私の在廊日は3月17日(土)12:00~19:00 / 3月18日(日)12:00~17:00を予定しております。(お花・お菓子等は会場の都合によりご遠慮願います。)

お近くにお越しの際は、どうぞご来場くださいませ。

「植物」イラストレーション絵画グループ展
2018年03月13日(火)~ 2018年03月18日(日)12:00~19:00 (最終日17:00まで)

gallery DAZZLE(ダズル)東京メトロ外苑前駅 3番出口より徒歩3分
〒107-0061 東京都港区北青山2-12-20 山西ビル#101

tel & fax 03-3746-4670

http://gallery-dazzle.com/exhibitions/「植物」-2/

 

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雑草という草はない

昭和天皇は、「雑草という草はない」とおっしゃったそうだが、

昔の人は今日、雑草と呼ばれているような草も愛でていたのかもしれない、と気づいたのは、2004年の東京国立近代美術館での「琳派 RIMPA」の展覧会で、川端龍子の「草炎」を見てからだ。

「草炎」は黒い地に(濃紺なのだが、ほとんど黒に見える)金泥で草が描かれている屏風だ。ほとんどが雑草と呼ばれるような草である。

独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索

 

といっても、川端龍子は明治から昭和を生きた人だから、結構最近の人だ。

川端龍子や草炎については、これから調べていきたいと思っている。また、日本の絵巻物に描かれていたり、掛け軸に描かれていた植物はどんなものがあってどんな意味合いがあるのかも調べたい。

 

雑草の話。

日本の家紋には雑草がもとになっているものがたくさんある、という話をある本で読んだ。どうも日本人は、雑草も園芸植物も農産物も区別なく愛でていたり、意味合いをつけていたみたいだ、と感じる。

 

そこで手に取ったのが「雑草が教えてくれた日本文化史 したたかな民族性の由来」稲垣栄洋 株式会社エイアンドエフ だ。

すごく面白いなと思いながら読んでいる。

「雑草」という概念は明治時代に日本に導入されたものらしい。

雑草という言葉は、江戸時代にはあまり使われていなかった。使われていても、雑木林と言うときのような、たくさんの草という意味だった。

雑草、をキーワードにして日本文化はどうしてこういう特徴があるのか、を読み解いている。面白いから、興味のある人はぜひ読んでみてください。

 

美術の分野で言えば、「洋画」と「日本画」は明治以降に出来た言葉だし、現代の美術マーケットは経済的な視点で言えば、完全に欧米が主流だ。展示の習慣についても日本は特殊なところがある、らしい。らしい、というのは、話には聞いてるけど私は欧米で展示したことはないので。

 

じゃあ、なんでそういう違いができたのか?私は植物をテーマに描いているが、最近は雑草に関心があるので、雑草をキーワードに考えていきたい。そして作品コンセプトに盛り込みたい。

 

なにより、雑草は造形的に面白いし、力強いエネルギーを感じる。雑草を相手にしているとすごく楽しい。

 

狩猟と芸能がであうところ

今年の6月の事ですが、馬喰町ART+EATというギャラリーで、浅野友里子さんの個展を見に行き、クロージングイベントの対談「肥沃の森の民俗と食文化」というものも拝聴してきました。

対談のパネリストは、
林のり子 (パテ屋主人/〈食〉研究工房主宰)
石倉敏明(芸術人類学者)
浅野友理子(画家)
画家の浅野さんが一番若くて私と同年代くらい。とっても刺激的でした。浅野さんは生活文化・食文化に対する取材をして、それに基づいて絵を描いている方です。
たまたま広告をみかけて、ひきつけられる絵だったので見に行きました。
対談の中で「狩猟と芸能がであうところ」という言葉がずーっと心に残ってまして。
芸術人類学者の石倉さんのお話のなかで、山伏の話や、酒や麹を作る媒介者である微生物が信仰の対象となっている話、西はかまどの文化・東は囲炉裏の文化・・・とかもう、様々気になる話がありました。
その中で、数ある東北のお盆の行事の一つ「シシ踊り」について。もっと複雑な話ではあったのだと思いますが覚えてる範囲で簡単にすると、シシ踊りの発祥の一説は、鹿の狩りの時に人間が躍る、すると鹿が見とれる、そこを鉄砲などで撃つ、というものではなかったか、ということ。もちろん他説もあるのですが、そこが躍り=芸能と、狩猟の出会うところだった。太古、人間の生活つまり狩猟や採集と芸能(芸術)は一体だった、と。
絵をかいて発表しているので、芸術について常日頃、考えておりますが、ここを忘れちゃいけないなあ、とたまに思います。もちろん今は、生活することと芸術は離れ居ているようにも感じる現代ですが、芸術、特に美術作品は「モノ」を扱います。物質なんです。物質を扱って何か作り上げることって意外と時間がかかるし手間がかかること。作り始めてみて初めて分かります。
絵をかかない人は、心の赴くままにパッと思いついたまま作品が出来上がると思いがちですが、そんなことはない。地道な作業。見る人と作る人にはその感覚の違いがある。
そのことに気づいたのは、趣味で家庭菜園をやってからでした。
たった5坪の菜園ですが、耕すのにこんなに時間と労力がかかる、季節を待たなきゃ作業ができない、これはやってみなきゃ分からないことでした。想像すらできなかったものが、5坪でこんなに大変なんだから、これくらいの量を収穫したかったら、こんな感じかな・・・?という想像がつくようになった。
そして思ったのは、農業は一次産業と言われる。二次産業、三次産業ってありますよね。経済学の詳細な定義はよくわからないで書きますが、芸術文化って一次産業とは違う高次産業だと思いがちでした。あくまで印象ですが。しかし、じつは一次産業なんじゃないかなあ、と思ったんです。物質を扱うという意味と、自然に働きかける、営みであることで。
菜園をしり、大豆から味噌作ったりしていて、それはただの趣味なんですが、こういうことに興味があるんじゃないかなあ。
絵画においても、そこを考えながら制作していきたいです。一気にはできないので、徐々に、徐々に・・・。
林さんのブナ帯の話も大変面白かった。
 
浅野友里子
馬喰町ART+EAT

どくだみ愛

個展でどくだみの絵を展示したら、様々な反応があった。「なんで、どくだみなんか描くの!?」というものが一番多かった。

バラをきれいに思って、バラを描くのと同じように、どくだみが美しいと思って描いたので、その反応は意外だった。

「どくだみの花、よく見ると可憐できれいよね。」という人が一人いた。それ以外は、なんでどくだみ!?と言われた。

「日陰にびっしり生えるよね。抜くの大変だよね。」「暗いイメージの花」という意見もちらほら。

 

 

今年の初夏、庭の草取りをしているときに、どくだみだけ抜かないで生やしておいた。おとなりさんに、「そんなにたくさんのどくだみ初めて見たわ。抜くの大変でしょ。」と言われた。こちらは愛でていたのだけど。

 

 

ある本を読んでいたら、良い俳句をみつけた。

 

どくだみや 真昼の闇に 白十字    芽舎

 

良い俳句だ。そう、あの濃い緑色で敷き詰められている中に真っ白な小さな花びらが、きわだつ。

花もそうだが、私は葉っぱのフォルムが好きだ。ハートの形に、すこし勢いのついた曲線。

 

次の個展もどくだみの絵を展示しようと思っている。