ushikunaomi’s blog

絵を描いています。絵画作品のサイトはこちら→http://ushikunaomi.com/

新たな制作場所

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4月より、studio913という共同アトリエでお世話になっています。

私以外に3名の作家が制作しています。

広い場所を使えることに感謝しています。

 

そして今まで同じアトリエだった升方允子さん!

Masako Masukata | 升方 允子 - ますかた まさこ

 

今までありがとう!允子さんの作品からも、プライベートからも、大いに刺激を受けました。

今までのご縁、これからのご縁に感謝しつつ、制作に励みたいと思います。

 

 

 

グループ展のお知らせ

この度、小笠原まりえさん、高橋亜紗子さんとの3人展を開催いたしますのでお知らせいたします。

私は、植物のエネルギーをテーマに新作13点を展示いたします。

私の在廊日は3月17日(土)12:00~19:00 / 3月18日(日)12:00~17:00を予定しております。(お花・お菓子等は会場の都合によりご遠慮願います。)

お近くにお越しの際は、どうぞご来場くださいませ。

「植物」イラストレーション絵画グループ展
2018年03月13日(火)~ 2018年03月18日(日)12:00~19:00 (最終日17:00まで)

gallery DAZZLE(ダズル)東京メトロ外苑前駅 3番出口より徒歩3分
〒107-0061 東京都港区北青山2-12-20 山西ビル#101

tel & fax 03-3746-4670

http://gallery-dazzle.com/exhibitions/「植物」-2/

 

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雑草という草はない

昭和天皇は、「雑草という草はない」とおっしゃったそうだが、

昔の人は今日、雑草と呼ばれているような草も愛でていたのかもしれない、と気づいたのは、2004年の東京国立近代美術館での「琳派 RIMPA」の展覧会で、川端龍子の「草炎」を見てからだ。

「草炎」は黒い地に(濃紺なのだが、ほとんど黒に見える)金泥で草が描かれている屏風だ。ほとんどが雑草と呼ばれるような草である。

独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索

 

といっても、川端龍子は明治から昭和を生きた人だから、結構最近の人だ。

川端龍子や草炎については、これから調べていきたいと思っている。また、日本の絵巻物に描かれていたり、掛け軸に描かれていた植物はどんなものがあってどんな意味合いがあるのかも調べたい。

 

雑草の話。

日本の家紋には雑草がもとになっているものがたくさんある、という話をある本で読んだ。どうも日本人は、雑草も園芸植物も農産物も区別なく愛でていたり、意味合いをつけていたみたいだ、と感じる。

 

そこで手に取ったのが「雑草が教えてくれた日本文化史 したたかな民族性の由来」稲垣栄洋 株式会社エイアンドエフ だ。

 

https://www.amazon.co.jp/dp/4990706587/

すごく面白いなと思いながら読んでいる。

「雑草」という概念は明治時代に日本に導入されたものらしい。

雑草という言葉は、江戸時代にはあまり使われていなかった。使われていても、雑木林と言うときのような、たくさんの草という意味だった。

雑草、をキーワードにして日本文化はどうしてこういう特徴があるのか、を読み解いている。面白いから、興味のある人はぜひ読んでみてください。

 

美術の分野で言えば、「洋画」と「日本画」は明治以降に出来た言葉だし、現代の美術マーケットは経済的な視点で言えば、完全に欧米が主流だ。展示の習慣についても日本は特殊なところがある、らしい。らしい、というのは、話には聞いてるけど私は欧米で展示したことはないので。

 

じゃあ、なんでそういう違いができたのか?私は植物をテーマに描いているが、最近は雑草に関心があるので、雑草をキーワードに考えていきたい。そして作品コンセプトに盛り込みたい。

 

なにより、雑草は造形的に面白いし、力強いエネルギーを感じる。雑草を相手にしているとすごく楽しい。

 

狩猟と芸能がであうところ

今年の6月の事ですが、馬喰町ART+EATというギャラリーで、浅野友里子さんの個展を見に行き、クロージングイベントの対談「肥沃の森の民俗と食文化」というものも拝聴してきました。

対談のパネリストは、
林のり子 (パテ屋主人/〈食〉研究工房主宰)
石倉敏明(芸術人類学者)
浅野友理子(画家)
画家の浅野さんが一番若くて私と同年代くらい。とっても刺激的でした。浅野さんは生活文化・食文化に対する取材をして、それに基づいて絵を描いている方です。
たまたま広告をみかけて、ひきつけられる絵だったので見に行きました。
対談の中で「狩猟と芸能がであうところ」という言葉がずーっと心に残ってまして。
芸術人類学者の石倉さんのお話のなかで、山伏の話や、酒や麹を作る媒介者である微生物が信仰の対象となっている話、西はかまどの文化・東は囲炉裏の文化・・・とかもう、様々気になる話がありました。
その中で、数ある東北のお盆の行事の一つ「シシ踊り」について。もっと複雑な話ではあったのだと思いますが覚えてる範囲で簡単にすると、シシ踊りの発祥の一説は、鹿の狩りの時に人間が躍る、すると鹿が見とれる、そこを鉄砲などで撃つ、というものではなかったか、ということ。もちろん他説もあるのですが、そこが躍り=芸能と、狩猟の出会うところだった。太古、人間の生活つまり狩猟や採集と芸能(芸術)は一体だった、と。
絵をかいて発表しているので、芸術について常日頃、考えておりますが、ここを忘れちゃいけないなあ、とたまに思います。もちろん今は、生活することと芸術は離れ居ているようにも感じる現代ですが、芸術、特に美術作品は「モノ」を扱います。物質なんです。物質を扱って何か作り上げることって意外と時間がかかるし手間がかかること。作り始めてみて初めて分かります。
絵をかかない人は、心の赴くままにパッと思いついたまま作品が出来上がると思いがちですが、そんなことはない。地道な作業。見る人と作る人にはその感覚の違いがある。
そのことに気づいたのは、趣味で家庭菜園をやってからでした。
たった5坪の菜園ですが、耕すのにこんなに時間と労力がかかる、季節を待たなきゃ作業ができない、これはやってみなきゃ分からないことでした。想像すらできなかったものが、5坪でこんなに大変なんだから、これくらいの量を収穫したかったら、こんな感じかな・・・?という想像がつくようになった。
そして思ったのは、農業は一次産業と言われる。二次産業、三次産業ってありますよね。経済学の詳細な定義はよくわからないで書きますが、芸術文化って一次産業とは違う高次産業だと思いがちでした。あくまで印象ですが。しかし、じつは一次産業なんじゃないかなあ、と思ったんです。物質を扱うという意味と、自然に働きかける、営みであることで。
菜園をしり、大豆から味噌作ったりしていて、それはただの趣味なんですが、こういうことに興味があるんじゃないかなあ。
絵画においても、そこを考えながら制作していきたいです。一気にはできないので、徐々に、徐々に・・・。
林さんのブナ帯の話も大変面白かった。
 
浅野友里子
馬喰町ART+EAT

どくだみ愛

個展でどくだみの絵を展示したら、様々な反応があった。「なんで、どくだみなんか描くの!?」というものが一番多かった。

バラをきれいに思って、バラを描くのと同じように、どくだみが美しいと思って描いたので、その反応は意外だった。

「どくだみの花、よく見ると可憐できれいよね。」という人が一人いた。それ以外は、なんでどくだみ!?と言われた。

「日陰にびっしり生えるよね。抜くの大変だよね。」「暗いイメージの花」という意見もちらほら。

 

 

今年の初夏、庭の草取りをしているときに、どくだみだけ抜かないで生やしておいた。おとなりさんに、「そんなにたくさんのどくだみ初めて見たわ。抜くの大変でしょ。」と言われた。こちらは愛でていたのだけど。

 

 

ある本を読んでいたら、良い俳句をみつけた。

 

どくだみや 真昼の闇に 白十字    芽舎

 

良い俳句だ。そう、あの濃い緑色で敷き詰められている中に真っ白な小さな花びらが、きわだつ。

花もそうだが、私は葉っぱのフォルムが好きだ。ハートの形に、すこし勢いのついた曲線。

 

次の個展もどくだみの絵を展示しようと思っている。

 

 

 

話し言葉書き言葉打ち言葉

外山滋比古の「人に聞けない大人の言葉づかい」という本が面白くて、ときどき読み返している。「立つか、寝るか」というエッセイでは、縦書きと横書きでの語感の違いについて書いている。もともと日本の文字は縦に書き、読むようにできている、というのである。縦に読む言葉は横線で文字を識別する。

鳥と烏 末と未

などである。わかりやすいのは漢数字。

一二三

である。ヨーロッパの言葉は、

ⅠⅡⅢ

となる。横書きの場合、縦線で区別する。どちらの言葉も合理的にできている。

さらに、同じ日本語で書いても、縦書きと横書きでは語感が違うという。ことばが立っているのと寝ているのとの違いがわからなといいのは心細い、という話だ。

立っているのと寝ているのでも違いがあるくらいである。筆記具を使って紙に書くのと、キーボードでタイピングするのでは、もっと違うだろう。

十代のころ、精神分析に関心があって、パソコンを使ってインターネットで情報を集めていた。その中にマニアックな掲示板があって興味深く読んでいた。そこでは、アメリカで精神分析の訓練を受けたプロの日本人が、日本の一般の人と議論していた。人間に対する謙虚な姿勢と、訓練と経験に裏打ちされた専門性が、書く文章にあらわれていて、読者は感心している人が多かった。(ところで、精神科医精神分析医は違う。一般に精神科医と名乗っている人がみんな精神分析を出来るわけではない。精神分析をするには、医師になるのとはまた違う専門的なトレーニングが必要である。)

そのプロの方が、掲示板に書き込みをするために文章を考えるとき、ノートに筆記具で書いている、と書いていた。ノートに書いたものを掲示板のためにタイピングしているという。仕事上、書く文章もすべてノートにまず、書いているとのことだった。

それを読んでいたく感心した。タイピングというのは、慣れてくると高速で打ち込めるから、頭の中の考えを文字にするが楽だ。書き直しも、推敲も簡単にできる。漢字がわからなくてもかまわない。タイピングに慣れていて、たくさんのことを考えている人は、長文を書くのだって簡単である。

しかし、腹に落ちる感覚とでもいうのだろうか、落ち着いて冷静に考えた感じが薄いと、私は感じている。

だから、ちゃんとした文章を書きたいとき、紙に筆記具で書きたいものだな、と思っていた。それをまさに実践している人に、出会えたからだ。

今から一五年ほど前、携帯電話が普及し始めたころ、電車の中で携帯電話をもって親指を必死に動かし、メールを打っている若者を、親指姫と言って揶揄している新聞記事を読んだ。今のスマートフォンと違って、まだ白黒の画面しかない、ボタンを押して入力していく携帯電話の時代だ。

今はスマートフォンになって、文字入力は、フリック入力になった。パソコンのタイピング、携帯電話のボタン入力、フリック入力、微妙かもしれないが、少しづつ違いはあるかもしれない。

小学校のころ、国語の授業で話し言葉と書き言葉は違う、と習った。この時代、打ち言葉というものもある、と付け加えても良いかもしれない。

そんなことを思い出して、ノートに文章を書き始めた。ちなみに縦書きで。

 

外山滋比古「人に聞けない大人の言葉づかい」中経出版

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